スペシャリストではなく経営者を目指し、部門の壁を超えた―SUNDRED 留目真伸さん

2020/01/28
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PROFILE
留目真伸さん
SUNDRED株式会社 代表取締役/パートナー

1971年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、総合商社で発電プラントのプロジェクト開発などに携わる。戦略コンサルティングファームを経て2002年にデルへ入社し、マーケティングの責任者として数々の事業部で活躍。その後はファーストリテイリングを経て2006年にレノボ・ジャパンに入社。常務執行役員として戦略やオペレーション、製品事業、営業の統括責任者を歴任し、2011年からはNECとのPC事業統合の責任者に任命され、レノボの世界シェア2位(当時)獲得に貢献。米国ヘッドクォーターの戦略部門エグゼクティブ・ディレクター、レノボ・ジャパンおよびNECパーソナルコンピュータ両社のコンシューマー事業統括を経て、2015年4月にレノボ・ジャパン代表取締役社長およびNECパーソナルコンピュータ代表取締役執行役員社長就任。退任後は株式会社資生堂CSOを経て、2019年7月よりSUNDRED株式会社の代表として「新産業共創スタジオ」を始動。2019年8月からはVAIO株式会社Chief Innovation Officer(CINO)も務める。

転職や独立・起業などの選択肢において、「それまでの経験が重要である」ということに疑問を持つ人はほとんどいないでしょう。キャリアを積むことは、蓄積した経験を生かしていくこと。当たり前のようにそう認識している人も少なくないはずです。しかし、総合商社やコンサルティングファーム、外資系企業などでグローバル規模のキャリアを積み、レノボ・ジャパン代表取締役社長などの要職を重ねた留目真伸さんは、「過去の蓄積には頼らない」と言い切ります。インタビュー前編では、特定分野のスペシャリストではなく、すべてを管掌する経営人材を目指して奔走した若手・中堅時代を振り返っていただきました。

漠然と生まれた「海外で大きな仕事がしたい」という思い

22歳から28歳までの6年間、私は海外のさまざまな国で、発電プラントの建設を進めるプロジェクトに携わっていました。

新卒で入社したトーメンは、後にトヨタグループの一員となる、まさに「日本の総合商社」といった趣の大企業でした。学生時代から海外でプラント建設をやりたいという思いを強く持っていた私にとっては、理想の就職先だったと思います。

90年代前半の、まだバブルの残り香がある時代。就職戦線はそれほど厳しくもなく、大学時代の私はそこまで勉強に身を入れた記憶もありません。ただ漠然と「大きな仕事がしたい!」と考える若者でした。大きな仕事って何だろう……? 考えて思い浮かんだのが、海外に出て大きなプラントを作る仕事だったというわけです。

今にして思えば、公立高校の教師をしていて、「厳格」「堅実」を絵に描いたような父親への反動があったのかもしれません。派手なことを好まず、海外旅行なんて必要ない。そんな生き方の父でした。10代の私はそんな父への逆張りのつもりで「世界を知りたい」「もっと自由に生きていきたい」と考え、日本人がほとんどいない海外の地で働きたいと思うようになっていきました。

とはいえ、総合商社に入社すれば必ず海外へ行けるというわけではありません。幸いなことにトーメンには「ドラフト制度」というものがありました。新入社員が入社時に自分のやりたい仕事をアピールし、その内容を買ってもらえたら希望の配属先へ行けるという制度です。私は実際に海外で活躍する先輩商社マンなどから話を聞いて情報収集し、ありったけの思いを込めてアピールしました。結果、晴れて海外のプラント建設を担う部署へ配属されることとなりました。

配属1年目は国内拠点で物流サポートや連絡機能などを担います。出荷手続きを進めるために、入社後すぐに海外からかかってくる英語の電話の対応をしました。当時の私はまだ英語があまりできなくて、ドキドキしながら席に座っていたことを覚えています。

特に、中東やインドなどからかかってくる電話を取り次ぐのは大変でした。人や会社の名前を聞き取るだけでも一苦労だったからです。一生懸命にメモを取って先輩に取り次ぐ日々。これこそが、私が憧れていた世界の入り口でした。そのうち先輩に付いていって海外出張をこなすようになり、やがて私自身にも海外駐在の辞令が出て、現地の発注主やエンジニアたちと向き合い、さまざまな交渉をくぐり抜けて商談をまとめる日々が始まりました。

トーメン時代は東南アジアを中心に、6年間で10カ国ほどでビジネスを経験しました。いちばん長く駐在していたのは韓国でした。

ダイナミックに、経営そのものを動かす仕事がしたい

プラントというのは都市部には建設できません。どこの国でも大概は田舎町に作られるものです。私が韓国で担当していた現場も、釜山から車で3時間を要したり、ソウルから飛行機で1時間を要したりする地方の町でした。

当然ながら日本人はほとんどいません。娯楽と呼べるものもほとんどないので、私は日本から本をたくさん送ってもらい、空いた時間があれば読書をすることが習慣となりました。当時、特に熱心に読んでいたのは、日本を代表する経営コンサルタント・大前研一さんの本です。戦略コンサルティングという世界があることを知り、興味をかき立てられました。

戦略コンサルティングについて知れば知るほど、自分の中の「大きな仕事」の定義が変わっていきました。

それまでの私は、海外で物理的にも金額的にも規模の大きなプロジェクトに関わることが大きな仕事だと考えていました。しかし、経営の意思決定に携わり、社会に大きなインパクトを与える戦略コンサルティングを知ってからは、これこそが大きな仕事ではないかと思うようになっていったのです。

同時に「自分もそれをやりたい」という思いが強くなっていきました。振り返ってみれば、私が経営人材を志すようになったのもその頃だと思います。

そうして戦略コンサルティングファームに転職し、そこで2年半を過ごしました。さまざまな業界のプロジェクトに携わり、たくさん勉強をさせてもらいました。

ただ、ビジネスそのもの、経営そのものに関わっている実感は、あまり持てませんでした。いろいろと分析をして経営者にアドバイスをするけれど、最終的に意志決定をして実行するのはクライアントです。頭では分かっていたことなのですが、「やっぱり自分はもっとダイナミックに、経営そのものを動かす仕事がしたい……」という思いから離れられませんでした。

アドバイスをするだけじゃなく、経営のライブ感を味わえるような環境に身を置きたい。そのほうが自分には向いているんじゃないかと。

ちょうどそのタイミングで、デルが人材募集をしていたのです。

当時のデルは「デルモデル」(※)で急成長している話題の企業の一つ。実際にオフィスを見学すると、アグレッシブな雰囲気の若い人たちがたくさん活躍していました。特に外資系にこだわっていたわけではありませんが、実力主義の会社に身を置いて、早くキャリアアップしたいという私の思いとも合致しました。

当時30歳。私は新たなフィールドへ進むことにしました。

(※)サプライチェーン・マネジメントを徹底して受注生産と直接販売を行い、在庫を極力持たずに不良在庫の削減や流通時の中間マージン排除を進めるビジネスモデル

「マーケティングと営業の壁」を打ち破ったコミットメント

デルに入社してからの私は、外資系のトップを目指すイメージをはっきりと持つようになりました。「グローバル企業の中でも存在感を発揮する経営者になりたい」と。

そう思うようになったのには明確な理由があります。

マーケティングを担う人材として入社した私は、コンサルティング時代に得た手法で、戦略分析を実行へつなげようとしました。しかし、程なくして壁にぶつかりました。「マーケティング部門だけでは結果を出せない」という現実を突きつけられたのです。

戦略がいかに優れていても、実行しなければ意味がありません。実行するのはマーケティングではなく、営業など別の部門です。私がやりたいのは戦略を立てるだけではなく、実行フェーズまでを完遂して結果を出すこと。最初から最後まで手がけたいなら、トップを目指すしかないと思ったわけです。

だから私は、マーケティング部門の中だけに留まるスペシャリストとしてではなく、各部門の長とも近い距離で仕事をしながら、経営者の右腕として動いていました。マーケティングの枠を超えて、チームとしてどう結果を出すかにこだわっていました。

時は00年代初頭。今では偉そうに語れることではありませんが、当時はみんな本当にハードワークでした。結果を出そうとする情熱があり、たとえ失敗しても、リカバリーに向けて新たなチャレンジを続けていました。当時社長を務めていた浜田宏さんもまさにそう。夜中まで喧々諤々(けんけんがくがく)の議論を繰り広げたことも一度や二度ではありません。経営者になりたいという私の思いの背景には、そんな浜田さんの姿に感化された面もあります。

当時は川崎のオフィスに勤務していましたが、いつしか私は川崎駅前のカプセルホテルの常連客になってしました(笑)。でも、そんな日々が本当に楽しかったんです。

デルで学んだのは、「組織が一つにならないと結果は出ない」ということでした。これ、言葉にすると当たり前のように感じるかもしれませんが、実行するのはとても難しいものです。私はたくさんの失敗も経験しながら、誰よりも働き、誰よりもこのことを考えていたと思います。

よく「マーケティング部門と営業部門の壁」を課題として挙げる企業の話を聞きます。自分が働く会社の状況と照らし合わせて、実感値を持つ人もいるかもしれません。

営業からマーケティングへ移る人も少なくはないはずなのに、なぜ2つの部門の間には壁ができてしまうのでしょうか? 私が感じていたのは、「営業経験があることと、マネジャーや組織長として営業チームを動かした経験があることは違う」ということでした。どんなメッセージを出せばチームが、人が動いてくれるのか。それを理解していないと一体感は生み出せないのです。もちろん、マーケティングしか経験していない人は言わずもがなです。

私の場合は、戦略だけでなく実行にまでコミットメントする中で、自然な形で営業部門の現場にも入っていきました。お客さんのところへは積極的に同行し、営業マネジャーに代わって施策や営業手法をレクチャーしたこともたくさんあります。

そうしていく中で「留目と一緒にやってやろう」と思ってくれる人が増えていき、マーケティングと営業が部門を超えて一体化したときに結果が出る。そんな体験を重ねました。

スペシャリストを目指そうと思ったことは一度もない

自分自身のキャリアを振り返ると、「いつも新しいことにチャレンジしてきたな」としみじみ思います。

戦略コンサルティング時代に頼りにしてきた仕事の考え方が、事業会社の実際のマーケティングの現場ではまるで役に立たないということもありました。

そうした意味では、私は当時から過去の蓄積には頼っていません。過去に蓄積してきたことよりも、これから学ぶことに価値がある。「これから学ぶことで勝負していきたい」といつも思っていました。

もちろん海外営業や戦略コンサルティング、マーケティングなどで得られたものはたくさんあります。それらは自分自身のベースとなりますが、新しい環境でも通用するとは限らないのです。

だから私は、スペシャリストとしての立場にはあまりこだわりがありません。デル時代にも「マーケティングのスペシャリストを目指そう」と思ったことは一度もありません。マーケティングをやるにしても、次の仕事を同じミッションの仕事ととらえるか、違うものだととらえて新しい発見を重ねていくのかでは、まったく違う仕事になるでしょう。

たまに「なぜ過去にこだわらずに新しいことに踏み出せるのか」と聞かれることもあります。答えはシンプルで、「やりたいな」「楽しそうだな」と思うからです。

それは今現在も同じ。もっともっといろいろなことをやりたいし、できると思っています。私の中では「同じことをずっと続けていく」というイメージがまったくないんですよね。

これはあくまでも私の個人的な感覚ですが、スペシャリストという言葉には過去の蓄積の匂いを強く感じます。それを強みにするよりは、新たに学ぶものを大切にしたい。そう思って積み上げていくキャリアも、アリではないでしょうか。

後編はこちら

[編集・取材・文] 多田慎介 [撮影] 稲田礼子
2020/01/28

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